江 姫たちの戦国 [大河ドラマ 江 感想]
淀君が追い込まれてきました。
もう 避けて通れない 織田家と徳川家の戦い
秀忠の和睦も空しく 戦う羽目になった。
戦国の時代とはいえ 大変な戦いだったのですね。
もう 避けて通れない 織田家と徳川家の戦い
秀忠の和睦も空しく 戦う羽目になった。
戦国の時代とはいえ 大変な戦いだったのですね。
江 [大河ドラマ 江 感想]
大阪 冬の陣
ドラマを観ることで
なりほど 大阪 冬の陣の戦いはこうしてなったのか と理解する
豊臣:徳川
淀君
一度 天下をとった者は それを捨てられない
・・・その感情がよく伝わった
家康の 底知れぬ知将が際立っています
このドラマ ここで初めて
江というひとの生涯は 波乱万丈な戦国時代を生きておられたのですね
女だから どうしようもないところはありますが 半端ない生きかたです
脚本家もこの生き方に視点を合わされたようですね
次回 楽しみです。
ドラマを観ることで
なりほど 大阪 冬の陣の戦いはこうしてなったのか と理解する
豊臣:徳川
淀君
一度 天下をとった者は それを捨てられない
・・・その感情がよく伝わった
家康の 底知れぬ知将が際立っています
このドラマ ここで初めて
江というひとの生涯は 波乱万丈な戦国時代を生きておられたのですね
女だから どうしようもないところはありますが 半端ない生きかたです
脚本家もこの生き方に視点を合わされたようですね
次回 楽しみです。
江 姫たちの戦国 父の仇 ③ [大河ドラマ 江 感想]
江 姫たちの戦国
第2回「父の仇」③
朝倉義景 浅井久政 長政 の どくろ が 宴席に並べられた話があった
これは 本当なのか
↓
信長公記では 天正2年(1574年)1月1日 宴席に並べられたとある
この話は 事実なのである
但し 三姉妹が信じていた
どくろ の盃で酒を飲んだ という噂話はこの時代のものではない
↑
現代の時代に 信長公記 を面白おかしく 漫画や書籍で広めたということです
この場面
江が 残酷だといわんばかりに 織田信長 を攻める
そして信長は こう反論する
↓
それは 亡くなり者への礼節としてじゃ
戦った相手を称え その前で酒をくらう 勝者 敗者が生ずるが戦は終わった
ともに着飾り 相打ち解けて 新しき年を迎えようではないかとな・・・
残念ながら・・・ 事実ではないようだ
信長公記 ではこう記載されている(165ページ)
↓
他国衆退出の已後 御馬廻衆ばかりにて
一 古今承り及ばざる珍奇の御肴出で候て 又 御酒あり 去年北国にて討とらせられ候
一 朝倉左京大夫義景首
一 浅井下野首
一 浅井備前首
已上 三ツ薄濃(はくたみ)にして公卿に居え置き 御肴に出され候て御酒宴
各御謡 御遊興 千々万々目出度御存分に任せられ
御悦びなり
薄濃(首を漆でかためたのち金泥などで薄く彩色した)三人の首を
古今聞いたことがない(酒の)肴が出た
と 評し
これ以上のめでたいことはない
と 喜んだのだ 礼節でもなんでもない
但し 校注者も指摘しているように
外様が退出したのちの 馬廻衆 つまり→ 側近たちとの宴席で行ったことだから
信長の残酷性を示すものとして誇大表示された
江 姫たちの戦国
第2回「父の仇」
以上 源氏の感想
第2回「父の仇」③
朝倉義景 浅井久政 長政 の どくろ が 宴席に並べられた話があった
これは 本当なのか
↓
信長公記では 天正2年(1574年)1月1日 宴席に並べられたとある
この話は 事実なのである
但し 三姉妹が信じていた
どくろ の盃で酒を飲んだ という噂話はこの時代のものではない
↑
現代の時代に 信長公記 を面白おかしく 漫画や書籍で広めたということです
この場面
江が 残酷だといわんばかりに 織田信長 を攻める
そして信長は こう反論する
↓
それは 亡くなり者への礼節としてじゃ
戦った相手を称え その前で酒をくらう 勝者 敗者が生ずるが戦は終わった
ともに着飾り 相打ち解けて 新しき年を迎えようではないかとな・・・
残念ながら・・・ 事実ではないようだ
信長公記 ではこう記載されている(165ページ)
↓
他国衆退出の已後 御馬廻衆ばかりにて
一 古今承り及ばざる珍奇の御肴出で候て 又 御酒あり 去年北国にて討とらせられ候
一 朝倉左京大夫義景首
一 浅井下野首
一 浅井備前首
已上 三ツ薄濃(はくたみ)にして公卿に居え置き 御肴に出され候て御酒宴
各御謡 御遊興 千々万々目出度御存分に任せられ
御悦びなり
薄濃(首を漆でかためたのち金泥などで薄く彩色した)三人の首を
古今聞いたことがない(酒の)肴が出た
と 評し
これ以上のめでたいことはない
と 喜んだのだ 礼節でもなんでもない
但し 校注者も指摘しているように
外様が退出したのちの 馬廻衆 つまり→ 側近たちとの宴席で行ったことだから
信長の残酷性を示すものとして誇大表示された
江 姫たちの戦国
第2回「父の仇」
以上 源氏の感想
江 姫たちの戦国 父の仇 ② [大河ドラマ 江 感想]
江 姫たちの戦国
第2回「父の仇」②
浅井 江(督)は
母 織田市 姉たちと 安土城で信長と会った
ここの設定は 天正7年(1579年)であるが
ドラマ設定となれば
三姉妹は 茶々11歳 初10歳 江7歳 となる
↑
役の女優さんは
それぞれ数えで 39歳 29歳 26歳 である
・・・ん~ 複雑(笑
市と三姉妹たちは
信長の弟 信包(のぶかね)居城 伊勢上野城に居た
と いう設定ですが これも事実かどうかは まだ分からないところです
↑
典拠は 浅井三代記 や 総見記 といった後世の書物内容だから
例えば総見記では
信包(のぶかね)のところに居たのは 暫時ノ間 とあり まもなく尾張清須に移ったと記されている
ドラマでは 6年もの間 信包(のぶかね)のところに居たとなっている
・・・暫く とはいえないのではないだろうか(笑
そして ドラマは
朝倉義景 浅井久政 長政 の どくろ が 宴席に並べられた話があった
さてさて 本当に宴席で どくろ を並べていたのでしょうか
興味ある箇所です
本当のところは 信長公記 に記されています
・・・・・父の仇 ③へ 続く
第2回「父の仇」②
浅井 江(督)は
母 織田市 姉たちと 安土城で信長と会った
ここの設定は 天正7年(1579年)であるが
ドラマ設定となれば
三姉妹は 茶々11歳 初10歳 江7歳 となる
↑
役の女優さんは
それぞれ数えで 39歳 29歳 26歳 である
・・・ん~ 複雑(笑
市と三姉妹たちは
信長の弟 信包(のぶかね)居城 伊勢上野城に居た
と いう設定ですが これも事実かどうかは まだ分からないところです
↑
典拠は 浅井三代記 や 総見記 といった後世の書物内容だから
例えば総見記では
信包(のぶかね)のところに居たのは 暫時ノ間 とあり まもなく尾張清須に移ったと記されている
ドラマでは 6年もの間 信包(のぶかね)のところに居たとなっている
・・・暫く とはいえないのではないだろうか(笑
そして ドラマは
朝倉義景 浅井久政 長政 の どくろ が 宴席に並べられた話があった
さてさて 本当に宴席で どくろ を並べていたのでしょうか
興味ある箇所です
本当のところは 信長公記 に記されています
・・・・・父の仇 ③へ 続く
大河ドラマ 江 父の仇 [大河ドラマ 江 感想]
第2回 「父の仇」
第1話 湖国の姫 でも書いたように 織田市の正確な結婚時期がわからないと
娘 三姉妹たちの誕生年も同じように 本当のところはよく分からないのが事実です
ドラマでは 浅井長政と市の結婚を 永禄11年(1568)に設定されていた
○ 長女 浅井茶々(淀殿)の生年は 一般的に永禄10年(1567年)とされている
これは 江戸後期の 翁草 が享年を 数え49歳とするところからで 没年は 慶長20年(1615年)と
いわれていますので 逆算すると 永禄10年(1567年)になります
永禄10年(1567年)の 茶々誕生説であれば・・・
ドラマがとった 永禄11年(1568年)浅井長政・織田市の結婚説は→ 破綻してします!
ドラマでは永禄12年(1569年)説をとられている
○ 次女 浅井初は 通常永禄13年=元亀元年(1570)誕生とされるが
→ 根拠希薄である
○ 浅井江(督)は 江戸後期に作成された 徳川家の女性伝 以貴小伝 が
享年54歳(寛永3年9月15日=1626年11月3日没)とする事で 天正元年(1573年)誕生とされた
↑
これは 父 浅井長政滅亡の年を一致する
・・・以貴小伝 が事実かどうかの根拠はない ここは浅井長政の娘でよければ 長政が滅びた天正元年(1573年)
の翌年 天正2年(1574年)以前の誕生であるということが間違いない という程度のものと理解するのがよい
落城のクライマックス シーン
直前のエピソードは 見るものを惹きつける感動シーン
ここは 脚本家のフィクションであり
見る人の心を掴む カット である
・・・・・父の仇 ②へ 続く
第1話 湖国の姫 でも書いたように 織田市の正確な結婚時期がわからないと
娘 三姉妹たちの誕生年も同じように 本当のところはよく分からないのが事実です
ドラマでは 浅井長政と市の結婚を 永禄11年(1568)に設定されていた
○ 長女 浅井茶々(淀殿)の生年は 一般的に永禄10年(1567年)とされている
これは 江戸後期の 翁草 が享年を 数え49歳とするところからで 没年は 慶長20年(1615年)と
いわれていますので 逆算すると 永禄10年(1567年)になります
永禄10年(1567年)の 茶々誕生説であれば・・・
ドラマがとった 永禄11年(1568年)浅井長政・織田市の結婚説は→ 破綻してします!
ドラマでは永禄12年(1569年)説をとられている
○ 次女 浅井初は 通常永禄13年=元亀元年(1570)誕生とされるが
→ 根拠希薄である
○ 浅井江(督)は 江戸後期に作成された 徳川家の女性伝 以貴小伝 が
享年54歳(寛永3年9月15日=1626年11月3日没)とする事で 天正元年(1573年)誕生とされた
↑
これは 父 浅井長政滅亡の年を一致する
・・・以貴小伝 が事実かどうかの根拠はない ここは浅井長政の娘でよければ 長政が滅びた天正元年(1573年)
の翌年 天正2年(1574年)以前の誕生であるということが間違いない という程度のものと理解するのがよい
落城のクライマックス シーン
直前のエピソードは 見るものを惹きつける感動シーン
ここは 脚本家のフィクションであり
見る人の心を掴む カット である
・・・・・父の仇 ②へ 続く
江―姫たちの戦国 [大河ドラマ 江 感想]
NHK大河ドラマ「 江―姫たちの戦国」
田渕久美子原作
第1話「湖国の姫」
感想・・・その①
浅井長政と市の結婚を 永禄11年(1568)に設定されていた
この年代設定は 意見が分かれるところ
ここは 時代考証 担当 小和田哲男さんの説
↑
これに対して
資料提供者の太田浩司さんは 永禄4年(1561)と説いておられる
アマゾン
(『戦国大名浅井氏と北近江―浅井三代から三姉妹へ』2刷、2009年、
21ページ、61ページ、長浜市長浜城歴史博物館)。
どちらが本当なのかその真実は分かりませんが
賢政 から 長政 になった改名時期に基づく太田説に妥当性があるのではないでしょうか
賢 は
織田同盟以前に従っていた 六角義賢 からの一字をもらったもので
長 は
信長からの一字と解される
浅井長政は
六角義賢の家臣 平井定武の娘と結婚していたが 離縁し 織田市 と婚姻する
市はともかく 長政は 初婚ではないようだ
詳しくは
↓
アマゾン 福田千鶴『江の生涯』8ページ、中央公論社
設定では 市が信長の妹という設定ですが必ずしも自明ではない
これは 織田家雑録 や 豊臣太閤素性記 などを根拠としているようです
↑
これに対して
江戸後期 徳川将軍の女性伝 以貴小伝 では
信長のいとこなり とあり 織田系図 などには いとこの娘とある
この説も 勿論 信用にたる説ではないのですが
妹 であることも確実とはいえないとは知っていてよい
(前掲『戦国大名浅井氏と北近江』130ページ、前掲『江の生涯』9ページ)
・・・
小豆袋シーンは
期待通り登場しましたが 待女が提案して 市が拒否するという設定で放映された
↑
残念・・・これは 勿体無い
この場面は
長政の離反をこっそり 信長に伝えたい市が 両端をしばった小豆袋を陣中見舞いとして信長に送り
信長軍(小豆)は 朝倉 浅井の挟み撃ちに遭いますよ
と いうメッセージとした有名な話です
届けられた 感動的なシーンで
大河ドラマ おんな太閤記 以来さまざまなドラマで採用されてきた
さてさて 続きはどうなるや・・・
田渕久美子原作
第1話「湖国の姫」
感想・・・その①
浅井長政と市の結婚を 永禄11年(1568)に設定されていた
この年代設定は 意見が分かれるところ
ここは 時代考証 担当 小和田哲男さんの説
↑
これに対して
資料提供者の太田浩司さんは 永禄4年(1561)と説いておられる
アマゾン
(『戦国大名浅井氏と北近江―浅井三代から三姉妹へ』2刷、2009年、
21ページ、61ページ、長浜市長浜城歴史博物館)。
どちらが本当なのかその真実は分かりませんが
賢政 から 長政 になった改名時期に基づく太田説に妥当性があるのではないでしょうか
賢 は
織田同盟以前に従っていた 六角義賢 からの一字をもらったもので
長 は
信長からの一字と解される
浅井長政は
六角義賢の家臣 平井定武の娘と結婚していたが 離縁し 織田市 と婚姻する
市はともかく 長政は 初婚ではないようだ
詳しくは
↓
アマゾン 福田千鶴『江の生涯』8ページ、中央公論社
設定では 市が信長の妹という設定ですが必ずしも自明ではない
これは 織田家雑録 や 豊臣太閤素性記 などを根拠としているようです
↑
これに対して
江戸後期 徳川将軍の女性伝 以貴小伝 では
信長のいとこなり とあり 織田系図 などには いとこの娘とある
この説も 勿論 信用にたる説ではないのですが
妹 であることも確実とはいえないとは知っていてよい
(前掲『戦国大名浅井氏と北近江』130ページ、前掲『江の生涯』9ページ)
・・・
小豆袋シーンは
期待通り登場しましたが 待女が提案して 市が拒否するという設定で放映された
↑
残念・・・これは 勿体無い
この場面は
長政の離反をこっそり 信長に伝えたい市が 両端をしばった小豆袋を陣中見舞いとして信長に送り
信長軍(小豆)は 朝倉 浅井の挟み撃ちに遭いますよ
と いうメッセージとした有名な話です
届けられた 感動的なシーンで
大河ドラマ おんな太閤記 以来さまざまなドラマで採用されてきた
さてさて 続きはどうなるや・・・